さてさて。
三国志には、大きく分けて「正史」と「演義」の二つがある事は皆様承知でしょう。
以下、一応補足です。
一般に言う三国志正史とは、三国時代のすぐ後の「西晋」という国の時代に、「陳寿」という人物が記したと言われています。
一方、三国志演義と言われるものは、元末から明初の人物である羅貫中が三国志正史などの歴史書をもとに、民話や説話などを織りまぜて作った小説だそうです。
簡単に言えば「正史は中国の正統な歴史書」「演義は歴史を元にした作り話」になります。
今日は正史(以下「三国志」)中心に書き連ねて行きます。
「三国志」は、西晋という国で作られました。西晋は、皆様御存じの司馬イの孫にあたる司馬炎が作った国です。
司馬イの息子の一人、司馬昭は魏で実権を握り蜀を滅ぼさせます。そして、司馬昭の息子の司馬炎は魏を滅し、国号を晋(西晋)とし、間もなく呉を滅亡させました。
三国統一するも、司馬炎亡き後は「八王の乱」と呼ばれる内乱や北方民族等の影響で、またすぐに分裂してしまいます。
「三国志」は、政権が統一されていたそんな短い期間に書かれたものです。司馬炎が亡くなる前後に完成されたと思われます。
「三国志」の作者である陳寿は西晋で史書の編纂を多く手掛けますが、蜀の生まれで蜀末の官僚でもありました。なので、魏・呉・蜀のうち蜀を少々ひいきしている記述も見えます。コーエーの三国志Ⅷにも蜀の武将としてちゃんと出て来ますょ。
「三国志」の特徴として、魏を正統としながらも魏国志・呉国志・蜀国志とそれぞれ分けた事が挙げられます。この時代に作られようとした歴史書の多くは魏を正当とし、それ以外の国は認めない方向で書かれたものばかりです。
これは、晋が魏から受け継いだ国ですので、魏が正統でなければ晋が正統ではなくなってしまうからです。3国それぞれの国志でわけるというのは、とらえ方によっては晋国への侮辱と言及されても仕方が無いにも関わらず、そうした陳寿には男気が感じられますね〜。
ちなみに、魏国志には有名な「倭人伝」があります。卑弥呼とか邪馬台国とか教科書で出てくるやつです。
三国時代というのは、後漢王朝から西晋王朝へと移り変わる過渡期であるために、歴史書を書く上で扱いが非常に難しかったと思われます。陳寿の「三国志」では、後漢書や晋書でも書き入れる事が難しい人物や事柄を、描いた役割も大きいでしょう。
例えばカクカを描く場合、後漢書に書くにしても、漢王朝に突筆する功績があったわけでもなく、晋書であっても晋王朝の時代まで功臣として生きていたわけでもない。あくまで魏国の人物だ。けれど、カクカの存在は魏国だけでなく歴史上でもとても重要。
そういう人物にスポットライトを当てる事ができたのも、陳寿の「三国志」ならではと言われています。
陳寿の「三国志」が無ければ、人物それぞれの評価が変わっていたかもしれませんね。
ところで、三国時代に関係してくる史料は、陳寿の「三国志」だけではありません。
まず、裴松之(はいしょうし)という南北朝時代の宋の人が、陳寿の「三国志」に注釈を付けています。これは文献や民話・説話からの多彩な引用が光っていて、三国志抜きでも貴重な史料です。
それから、三国時代に至るまでは後漢王朝ですから、後漢書も関係して来ます。これには袁ショウや僕の大好きな献帝の伝もあります。
もちろん晋書も関係してきますし、後の北宋時代に作られた「資治通鑑」も三国時代について書かれています。「資治通鑑」は周の時代から北宋の時代までの歴史を綴った史書で、中国の歴史を知る上で欠かせないものとして高い評価と信頼性を得ています。
陳寿の記述の形式は簡潔な内容を記すにとどまっており、三国時代を知る上で、以上のような「三国志」以外の史料の活用が欠かせません。(「三国志」だけ読んでいたら、どうやら李儒が出て来ないという噂です(笑)
本当に三国時代に詳しくなろうとしたら、以上の様な書物にも触れなければいけないのですね。もちろん、もっと参考史料は腐るほどあるでしょう。
(…シブサワ・コウが全部読んでるかは疑問ですが)
○正史・演義シリーズはこれから暇を見つけては書いてきます。くだらない馬鹿日記には変わりないんですけど…日記を利用した覚書みたいな物なので、ご容赦くださいまし。
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